日本vsパラグアイ戦が終わり、

幾つかの大きな足跡を残し、日本チームは南アを跡にして帰路につきました。

TBSの瞬間最高視聴率は64.9%、殆どの日本人がライブで日本代表を応援したことになる。

120分間繰り広げられた死闘、お互い守りを重視したディフェンシブな内容だったけど

ピンチもあり、チャンスもあった。

チャンスをものにできるかどうか、この少しの差が世界の壁だと思う。

 

でも僕らの年代にとって、日本代表がW・カップのピッチで

ベスト8をかけて戦っていること、そのこと自体が夢の出来事なのです。

 

 

1968年、釜本、杉山擁する日本代表がデットマール・クラマーをコーチに迎え

メキシコオリンピックで銅メダルを獲得した時から、僕のサッカーへの熱き思いは

始まった。

日本にプロサッカーなど微塵もない頃、日本のサッカー選手の最高の舞台はオリンピックで

その舞台でベスト3に入ったのだから、それまで野球一辺倒だった子供達のあこがれは

サッカーにも大きく傾き始めたのだ。

 

中学校のグランドで昼休みにボールを蹴りながら、「高校では絶対サッカー部に入るぞ。」と

胸躍らせていたものだ。(その後、高校、大学、地域の社会人リーグでもサッカー一筋でした。)

 

1970年のメキシコワールドカップはブラジルが優勝したのだけれど、

オリンピックなど足元にも及ばないとんでもなくハイレベルのプロ選手の大会が

ワールドカップだということを知った。 その頂点にペレという「サッカーの神様」が

いることを知ったのもこの時だ。

当時、テレビ放送はなく新聞で試合結果と内容を知るばかりだったが、「ペレの神技でブラジル勝利!!」なんて書かれていると、W・カップへの幻想は膨れるばかりだった。

 

この頃の日本代表はオリンピックアジア予選では勝てても、W・カップアジア予選では歯が立たず

中東のサウジアラビア、イラン、イスラエルなんかが強かった。

 

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この当時のワールドクラスのプレーヤーは

各国に何人もいて、今でも幾らでも名前を挙げることができる。

ブラジルではペレの他に、リベリーノ、ジャイルジーニョ、トスタン、カルロス・アルベルト,etc

イタリアではルイジ・リーバ、ボニンセーニア、マッツオーラ、リベラ、ファケッティーetc

西ドイツはゲルトミューラー、ベッケンパウワー、ウーベ・ゼラー、オベラーツなどなど

 

今でも彼らのプレーを鮮明に思い出せる程だ。

その後、70年代にはヨハン・クライフ率いるトータルフットボールのオランダ

がサッカー界をリードしていた。

 

1979年ワールドユース大会が日本で開催された。

大学を卒業してこの頃、東京で勤務医をしていた僕は

女房の徳子と準決勝のアルゼンチンVSウルグアイ、

決勝のアルゼンチンVSソビエト連邦 

の試合を国立競技場で観戦した。

この時、目の当たりにしたのが

若き日のディエゴ・マラドーナだった。

すでに、ワールドクラスの呼び声が高かったが、

彼のプレーには度肝を抜かれた。

彼から繰り出されるパススピードとシュートの正確性は

日本の選手とはレベルがあまりにも違った。

世界との差はとんでもなく離れていることを

この時実感した。

 

この後80年代はまさにマラドーナの時代だった。

そして、プラティニのフランスが華麗な美しいシャンパンサッカーで

世界を魅了する。

 

ワールドカップは日本にとってまだまだ遠い。

 

90年代になり、日本がW・カップの最も近づいたのが

1993年のドーハだった。

イラクを相手にロスタイムまで2:1でほぼキップを手にしていた。

もう数分耐えろ。

ところが・・・

カズのマークを振り切ってあげられたセンタリングに

イラク選手のヘディングから、キーパー松永の頭上越しに

ボールが日本ゴールに吸い込まれる。

実現しかけた長かった大きな夢がその瞬間、打ち砕かれた。

TVでライブ観戦していた僕は真っ白になった。

「アメリカに行こう、アメリカにいこう!!」と連呼していた

ウルトラズや全ての観戦者は同じだったと思う。

味わったことのない脱力感。

また、4年も待たなければならないのか・・・

ドーハの悲劇だった。

 

中田という新しいスターが生まれ、

1997年、ジョホールバルの第3代表決定戦でイランと対戦、

延長にもつれ込んの死闘の末、ついにW・カップの切符を手にした。

この戦いは「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれた。

 

僕の中では

30年も待ったのだ。

長かった、あまりにも長かった。

それだけW・カップは偉大な大会だったのだ。

 

1998年 フランス大会

 3戦全敗 中山が南ア戦で日本の初得点  

W・カップは甘くない。

 

2002年 日韓共同開催大会

 予選免除で本大会出場

 グループシードのアドバンテージもあり

 2勝1分で決勝トーナメント出場 ベスト16

 

2006年 ドイツ大会

 この年の日本代表はおそらく史上最強チーム

だったと思う。1978年~1979年生まれのG・エージ組が

中心で、年齢的にも成熟期だったからだ。この年代は

ワールドユースで世界大会準優勝している。

しかし、ジーコジャパンと言われたこのチームは

1分2敗で無残に散った。

内部崩壊が原因だった。ジーコが「組織の構築」を

軽視した結果だったと言える。

中田の空周りで終わった大会だった。

中田は絶望して引退した。

 

 

 

 

 

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2010年 南アフリカ大会

 

オシムJAPANは、オシムが倒れたことで岡田JAPANとなった。

2006年の失敗を繰り返すまいと、強化が続けられた。

アジア予選を無事に通過し、

世界で最も早く本大会出場を決めた。

 

 

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そして、6月11日から始まった本大会。

日本は結果として、グループリーグを2勝1敗とし、

決勝トーナメントに進んだ。

日本VSパラグアイ  延長を含め120分 0:0 PK3:5 敗戦

 

グループシードも、ホストアドバンテージもなく

アウェーで決勝トーナメントに残るまでに、

日本がメキシコオリンピックで世界に知られてから更に40年を要した。

僕には万感の思いがある。

ようやく、ここまで来た、

サッカー大国であっても舐めてかかれない

日本になりつつあるという充実感がある。

 

でも、冷静な分析と評価が必要だ。

ベスト16になり得た要因は何なのか?

 

岡田監督の人気はⅤ字回復した。

評価はうなぎ昇りだ。

でも、果たして正しい評価なのか?

僕なりに検証してみたい。

 

今年に入り、W・カップの強化試合に

日本代表は韓国に2敗し、セリビア、イングランド、コートジュボアール

に歯が立たなかった。

W・カップ直前になり、チームの弱さを見事に露呈してしまったのだ。

 

岡田監督は韓国に2敗した時点で協会に

口頭で進退伺いを出している。

戦術、システムに自信をなくしてしまったからに他ならない。

 

躍進の要因の一つがここにある。

1、岡田監督が考えていた戦術、システムを流動的に変えていく必然性が出てきた。

  システムありきではなく、組織力をベースに相手の力に合わせた戦術の流動性が

  必要ということ。

 

2、日本代表が4連敗したことで、岡田監督の能力が疑問視され、批判が噴出した。

  ピッチに立つ選手達が自分達が勝てないために、

  監督が批判の矢面に晒されることに、当然選手は責任を感じる。

  監督を守ることができるのは、勝つしかない、

  この共通した思いがチームを1枚岩にするきっかけとなった。

 

 3、選手自身がW・カップ直前のガチンコの前哨戦で客観的に個人の力を把握できた。

  その結果、組織力の重要性を認識できた。この組織力の重要性は2006年のドイツ大会

  の反省でもあった。

 

4、本田というポジティブなキャラクターを持つ選手が、チームに溶け込んだこと。

  自信を失いかけた中で本田の姿勢は希望だった。

 

5、カメルーン戦が初戦だったこと。

  カメルーンはエトーの出場辞退発言や監督と選手間の確執があったりで、内部に

  問題を抱えていた。

  今大会がアフリカ各国にとってホスト国にも拘わらず、グループリーグを勝ち抜いたのは

  ガーナだけだった。

  アフリカサッカー界に何が起こっているのか?

  各国の協会や選手個人が商業(金)至上主義を優先するあまり、チーム力が

  弱体化しているように思える。

  かって、ロジェ・ミュラーを擁してベスト8に躍り出たセンセーショナルな

  カメルーンの面影はなかった。

  日本戦では本来の半分の力も出せていなかったのではと思う。

  初戦がオランダだったら、全く違った展開になっていただろう。

 

6、闘莉王と中沢という優れた2人のDFがいたこと。

  今大会の日本の失点はオランダ戦でシュナイダーの弾丸シュートを川島がはじき出せなかった

  一点と、デンマーク戦での長谷部のハンドによるPKの2失点だった。

  殆どの状況で、この二人がことごとく相手の攻撃を跳ね返したと言っていい。

  デンマークやオランダのような長身のFWがいる中で、この二人のパフォーマンスは

  特筆されるべきものだ。特に闘莉王のその名に負けない闘志溢れるプレーは

  見事の一言だった。

  この二人は、おそらく日本代表を去るだろう。

  この二人に匹敵する優れたDFが育ってくれるか、これからの大きな課題である。

 

W・カップ直前に吹きまくった逆風と試練は、

そのことがチームの結束力を強め、

まさに大きく急変して追い風となった。

 

まさに「あざなえる縄のごとし」「人間万事塞翁が馬」である。

 

ただ、結果論で岡田監督を名将にしてはならないと思う。

 

僕は岡田監督のサッカー理論を否定しないが

それを実践するための手腕や監督としての器は評価していない。

もし、彼が今回の日本代表の飛躍に一役買ったとしたら

それは、「我慢強さと投げ出さなかったこと。」だと思う。

 

あれだけのパッシングの中で、一時は自信を失いかけても

チームを見捨てない姿勢が選手に伝わったのかもしれない。

この点では、岡田監督は評価できる。

 

日本サッカーの目指すべき道は組織力を柱としたサッカーだと信じている。

本田が何人いても、闘莉王が何人いても個人の力だけではサッカーは勝てない。

個人の力が組織として連結した時に最大限の力が発揮される。

 

2010年日本代表メンバーの全員がこのことに気づいて、

実践したからこそ、今回の飛躍があったと信じて疑わない。

                                       有仁