毎年、3月祝日の前後に臨時休診をいただいて、女房と1泊2日の旅に出かけています。
今年は、篤姫の故郷薩摩(鹿児島)に行ってきました。(3月19、20日)
3月19日の始発の新幹線(6:22発)で品川へ、品川から羽田空港、羽田からJAL1865便で空路鹿児島へ飛び立ちました。
鹿児島空港に降り立ち、ネット予約していたレンタカーでまず、島津家の別邸「仙厳園」へ向かいました。
あいにくの曇り空で、ぽつぽつと雨が降り始めましたが、浜御殿といわれるこの別荘は篤姫も訪れたようで、手入れがゆきとどき、素晴らしい庭園がありました。
どんよりとした雲に隠れた桜島が見えます。天気が良ければ、見事な借景です。
巨大な灯籠が印象的でした。「獅子乗大石灯籠」というそうです。
屋根の広さが四畳程もあるそうです。
屋根の上に乗っている複雑な形をした石は、まるで天女が海に向かって拝んでいるように見えますが、
実は獅子が逆立ちをしている姿です。
なるほど、そのように見えますね。
磯御殿は有料で案内の方が説明してくれました。
写真撮影禁止なので、玄関だけです。
明治になってからの29代島津忠義と30代島津忠重の頃の部屋を再現しています。
シャンデリアが現存する謁見の間など趣のある書院の間が幾つもあり、まさに御殿でした。
磯御殿見学後は13:00を過ぎていたので、併設しているレストラン潮香亭で昼食をとりました。
せっかく鹿児島に来たので「薩摩料理だね。」ということで、写真の「さつま御膳」を注文しました。
きびなごのさしみ、薩摩汁、黒豚と地鶏の陶板焼き、さつまあげ、黒豚の筑前煮などです。
美味しかったですよ。
昼食後は同じ敷地内にある「尚古集成館」を見学しました。
名君28代島津斉彬が時代を見据え、強く豊かな日本を目指し、集成館事業を興しました。
造船、造砲、製鉄、紡績、ガラス、印刷、電信、医療、福祉などさなざまな分野に及んでいました。
それらの業績がここに展示されていました。
午後から傘が必要なほどの雨模様になりました。
明日、知覧まで足を伸ばしたいため、今日できるだけ鹿児島市内の施設を見ようと
まず、期間限定で開催されている「篤姫館」を訪れました。
「篤姫館」は鹿児島湾岸に造られた鹿児島駅から車で5分程のドルフィンポート内にありました。
NHK大河ドラマ「篤姫」に関する資料が展示されています。
鹿児島を選んだきっかけが「篤姫」だったので、楽しみにしていた施設です。
将軍以外入れない大奥が再現されていました。
ここは大奥の中の上様の部屋です。羽織を着て写真を撮らせてくれるというので、
家定になった気分で写真を撮りました。
1日目のコースの最後は「鹿児島市維新ふるさと館」です。
PM4:00を過ぎてしまったので、駆け足で施設内を見学しました。
西郷隆盛、大久保利通の幕末から維新にかけての偉業が映像、ジオラマ、ロボットなどを使って紹介されていました。ここは加治屋町に位置していて、この二人の生誕地でもあります。
他にも東郷平八郎、大山巌などの偉人がこの小さな町内から生まれています。
すごい場所ですよね。
この偉人達を育んだ教育が「郷中教育」というものでした。
この教育の内容は
武士道の儀を実践せよ。
心身を鍛錬せよ。
嘘を言うな。
負けるな。
弱いものをいじめるな。
質実剛健たれ。
というものです。これを年長の者が年中、年少の子供達に教え、伝えていくのです。
素晴らしい教育なので、現代の教育にもぜひ取り入れて欲しいですね。
この日の宿泊は城山観光ホテルです。
城山の頂にそびえ立つ鹿児島市最大のホテルです。
このホテルからの桜島の眺望を楽しみにしていましたが、あいにくの雨になったので残念でしたが、
翌日に期待することにしました。
夕食は庭園の見える郷土料理「滝の茶屋」です。
結婚30周年ということで、お店からお祝いのカードをいただきました。
料理は、昼食のメニューと幾つか重なりましたが、どれも味わい深く、美味しかったです。
20日の朝です。この日は30㎞程離れた知覧に行く予定で、朝食は7:30までに済ませました。
チェックアウトの時にロビーで記念撮影、8:00出発です。
天気は回復に向かっていますがまだ雲が切れず、桜島からの日の出は霞んでいました。
知覧へは鹿児島ICから有料の指宿スカイラインを走り、ほぼ30㎞です。
途中、展望台によったので約50分で最初の予定地「知覧武家屋敷群」に到着しました。
写真は駐車場です。
「薩摩の小京都」といわれる知覧の武家屋敷は、母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた美しい町並みが特徴です。特に7つの庭園が国の名勝に指定されていますが、この伝統的建造物を町ぐるみで保存しようという意気込みが強く伝わってきました。
名勝指定庭園の一つです。
この庭園は、現在も住まわれている一般住居の庭園です。
手入れ保存も大変ですが、この美しさを守る人たちの努力にとても感銘しました。
武家屋敷を後にし、いよいよ太平洋戦争末期、特攻隊員としてこの地から沖縄目指して飛び立ち、肉弾となって戦死していった陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等が展示されている知覧特攻平和会館の見学です。
この戦闘機は陸軍1式戦闘機「隼」です。映画で使用した実物大です。
「とこしえに」と書かれた特攻隊員像がありました。
両手を強く握りしめ、日本国の為に出撃する強い決意が伝わってきます。
三角兵舎が復元されていました。出撃を待つ間の短い期間、ここで宿泊していたそうです。
敵機に発見されないよう鬱蒼とした林の中に造られていました。
ここで、短かった青春の思い出や家族、恋人の事を腹を割って語り合ったことでしょう。
会館内の様子です。
中央に陸軍三式戦闘機「飛燕」のレプリカが置かれていました。
壁伝いには、若き特攻隊員の英霊コーナー、隊員の写真、遺書、絶筆、戦史資料が展示されていました。
石碑に写っている特攻隊員に囲まれた笑顔の女性が「特攻の母」と呼ばれた鳥浜トメさんです。
知覧で富屋食堂を切り盛りしながら、多くの特攻隊員を見送った女性でした。
ホタルとなって帰ってきた隊員、最後に母国の歌「アリラン」を唄って散っていった朝鮮人隊員の悲話など映画にもなりました。
この富屋食堂が今でも現存していることを聞き、どうしても行ってみたくなりました。
聞けば、武家屋敷の近くだというので、帰りに寄ることにしました。
富屋食堂は武家屋敷近くの県道沿いにありました。
知覧の飛行場から隊員達が軍用車に乗り、トメさんを母親と慕いここまで通ったのです。
また、知覧高等女学校に通っていたお嬢さんを妹のように思い、あるいは密かに恋心を抱いた隊員もいたようでした。
この食堂には死にゆく隊員の純心な青春の1ページが刻まれていたのです。
食堂内には何人もの隊員のエピソードが紹介されていました。
この写真もその一つ。中央の女性は恋人だったのでしょうか?
全ての隊員にそれぞれの宝の様な人生があったのです。
知覧から指宿スカイラインを通り、再び鹿児島市内に戻ってきました。
照国神社前の交差点から撮った城山観光ホテルです。
ちょうどお昼になっていて、昼食は鹿児島ラーメンを食べようと決めていました。
天気は快晴となり、蒸し暑ささえ感じました。鹿児島市は今年最高の27℃を記録しました。
照国通りです。
右側にラーメン屋が見えます。
黒味噌ラーメンを食べれる店として紹介されていた三平ラーメンです。
ここで昼食にすることに決めました。
お薦めの黒味噌ラーメンです。温泉卵入りです。
半ライスを付けてもらいました。黒豚チャーシューも柔らかくて、☆三つでしたよ。
三平ラーメンの大通りを超えた斜め向かえに鹿児島県立博物館がありました。
歴史を感じさせるこの建物は元は県立図書館だったようです。
大正時代に建設され、今は博物館として利用されたいますが、
いろいろな町を訪れた時、町の中心に博物館があるかどうかは、その町の文化に対する見識の高さを物語っているというのが、私の持論です。
歴史や文化をとても大切にする県民性や市民性がこの建物に表れているように感じました。
子供達が視覚的に楽しみながら学習できるよう、多くの動物、生物の展示がされていました。
自然、生態、それを生かす人々の生活の知恵などが解り易く説明されています。
子供の頃から博物館は大好きで、「博物館で働きたい 」と思ったこともありました。
今の仕事もまんざら無関係とは言えませんけどね。
午後1:00を回り、鹿児島市内を観光できる時間はあと3時間ほどです。
限られた時間の中で出来るだけ見なくては・・・。
まずは、鹿児島城(鶴丸城)跡に建てられた鹿児島県歴史資料センター黎明館 に足を運びました。
鹿児島の歴史、考古、民族、美術、工芸を紹介する施設です。
残念ながら、施設内は写真撮影禁止です。
この施設だけでもじっくり見学すれば、1時間半はかかりそうでした。
歴史ではやはり西郷隆盛を中心に幕末維新の貴重な資料が目を引きました。
西郷の軍服は120kgを超える体格を包むだけあり、大きさに圧倒されました。
他に印象に残ったものは、昭和初期の鹿児島天文館通りの再現コーナー。
今、昭和ブームですが、「古き良き昭和だなあ~。」思わずつぶやくリアルな復元模型でした。
この鹿児島の旅で、絶対はずせなかったのが、西郷ゆかりの場所です。
城山の中腹には西郷洞穴がありました。
西南戦争で劣勢を余儀なくされた薩摩軍。田原坂の激戦の後、官軍に追撃されながら故郷の城山まで敗走してきました。
最後の戦いをこの城山でと決意し、この洞窟に5日間こもりました。
西南戦争がなぜ起こったのかは歴史の教科書に任せますが、当時の日本国の多くの地域の士族達はあまりに急激な政府の改革についていけなかったのでしょう。
西郷が創った士族を中心とした私学校の若者が不満を暴発させたのも時代の必然だったのかもしれません。
西郷が扇動したのではなく若者の血気を理解し、時代の流れと受け止め新たな日本の船出の為に
自らの命を捧げたのでしょう。
「おはんらにやった命」 この言葉の重さが心に沁みました。
西郷がこの洞窟に籠った5日間、薩摩の城下の女性達がこっそり食事を運んだそうです。
管軍も見て見ぬふりをしていたそうです。
西郷がいかに人々に敬愛されていたかを知るエピソードです。
西郷は5日後、洞窟を出ました。腹を切ることより、敵の銃弾に倒れることを望んだと云われています。
写真が西郷終焉の地です。この場所にきた時、希望通り管軍の銃弾が太腿から下腹部を貫通しました。
「もう、ここで良か。」最後の言葉でした。そして付き添っていた別府晋介の介錯で、西郷の首は跳ねられたのです。
この時、西南戦争は終わりを告げました。
そして、明治政府は近代日本へとまっしぐらに突き進んでいったのです。
西郷南州顕彰館がある南州公園です。
ここには西郷以下、西南戦争で戦死した幾多の薩摩志士が眠る墓地がありました。
中央が西郷の墓でした。
幕末から維新に登場したこの偉人に思わず手を合わせました。
顕彰館はやはり西郷の生涯に関する資料展示がありました。
征韓論で大久保と袂を分けたことで、西郷の人生は大きく変わりました。
顕彰館が奥に見えます。
ちょうど駐車場付近が工事をしていました。
自顕流をご存知でしょうか?
幕末の歴史を切り開いた最強の剣法といわれています。
あの新撰組の近藤勇が「薩摩の初太刀は気をつけろ!」と恐れた秘剣です。
人切り半次郎こと中村半次郎が自顕流の使い手でした。寺田屋事件、生麦事件など薩摩藩が主役になった幕末の出来事にも自顕流は常に登場します。
桜田門外の変で井伊直弼の首を一刀の元に切り落とした薩摩脱藩浪士有村次左衛門の一太刀も自顕流でした。
幕末が好きな私はこの剣法に非常に興味があって、一度は本物を見てみたいとあこがれのような気持を持っていました。
全くの偶然だったのですが、何とこの南州公園で自顕流の稽古をしている少年に出会うことができたのです。
思わず何枚も写真を撮りました。
この一連の動作は「抜き」の稽古です。
自顕流、正式には野太刀自顕流というのですが、一撃必殺、最初の一太刀目に全身全霊をかけて
打ち込むのです。この時の絶叫にも似た奇声はすごい迫力です。
よく薩摩剣士が「ちぇいすと!!」という掛声を出す場面をドラマ等で目にしますが、違います。
「きえー!!」という奇声です。
更に、驚かされたことは少年が持っている木刀でした。
持たせてもらったのですが、ものすごく重いのです。この木刀をこのスピードで抜くことができるとは、
そうとうの鍛練が必要だろうと感じました。
「これは軽い方で、もっと重たいものも使います。」と少年が答え、
大木に立てかけた何本かの中で最も重い木刀に手をかけ私に渡しました。
何と先の木刀よりはるかに重たいのです。野球バット4本分ほどの重さはありそうです。
「この木刀で続け打ちの稽古をして見せましょう。」と言って
実際に「続け打ち」を見せてくれました。
次の写真です。
木刀の太さ、長さがいかにすごいか解ります。
立木と呼ばれる木の束に向かって奇声を発しながら打ち下ろしを繰り返すのです。
自顕流の基本の練習です。
地軸の底まで叩き斬る気合いで続けるのです。少年とは思えない凄まじい迫力でした。
私も中学時代、剣道を習っていたことがありますが、このような練習を見たことも教わったこともありませんでした。
最強の剣法の秘密を垣間見たようで、感動していました。
そして、この少年に出会えたことだけでも「鹿児島に来た甲斐があった。」と感じる程でした。
南州公園から見た桜島です。
これが見納めかな。
鹿児島空港に向かう前に、篤姫が育った今和泉島津家本邸跡を通りました。
今は昔の面影はありませんが、当時を偲ばせる石垣だけが残っていました。
一番最後になってしまった西郷像です。
鹿児島にもう一度訪れることはあるのでしょうか?
そんな思いで、西郷さんに別れを告げました。
鹿児島空港内です。
お土産はホテルでも買いましたが、
待ち時間があるので、つい目がいってしまいます。
さつま揚げ、地鶏のさしみ、黒味噌ラーメンも結局買ってしまいました。
一泊二日の短い旅でしたが、鹿児島を十分堪能できたと思います。
雲の上の人になり、さあ、明日からまた仕事が待っています。
気持ちを切り替えて、
西郷隆盛の時代を切り開いた実行力とリーダーシップをお手本として
これからの自分の人生に少しでも役立たせたいとひそかに思いつつ
帰路につきました。
鹿児島の旅 完 有仁
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